2011年12月12日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高222m>

阪和国境、日本最後の仇討ち顛末

広井磐之助は、“仇討ち免許状”を与えられた。仇討ちを許されたとはいっても肝心の相手、棚橋三郎の居所はなにもつかめていなかったのである。彼は焦っていた。知人にその行方の調査を依頼し、自分も身を粉にして思い当たる場所に足を運んだのであった。

文久三年春を過ぎた頃、ある知人から書状が届いた。それは棚橋三郎に似た男が、紀州の加太に潜んでいるらしいという情報であった。待ちに待った、夢にまで見た父の仇(かたき)との遭遇が近づいていたのである。

加太は今でもそうであるが、大河紀ノ川の河口に位置する漁師町であり、友が島へ渡る起点でもある。三郎はその漁師(すなどり)の廃屋のような小屋に住んでいるとの情報であった。

磐之助は険しい山を越え、ようやくのこと加太の村に入った。そして知人の案内を得てその廃屋に近づいて行ったのである。棚橋三郎に似た男は、ボロを纏って身分を隠し、周りの誰とも接触をしていないようにみえた。じっくり観察した結果、確かに自分の探し求めてきた父の仇である事を確信した。磐之助はすぐさま、紀州藩に事分けを話し、改めて正式に仇討ちを申し出たのであった。

紀州藩の考え方はこうである。出来るだけ自藩との関わりのない場所にて実行するのならばやむを得ない。よって棚橋三郎を国払いとする。加えて、仇討ちは境橋付近、和泉側(大坂)にて、すべし・・・。紀州藩の領地外で行う事を通告したのである。

時は文久三年(1863)、六月の二日、陽暦では七月十七日。朝から降っていた雨が上がり、境橋の下の瀬に濁った水が音を立てて流れ下っている。時間は午後一時を少し過ぎている。この橋のたもと、ここは紀州藩と和泉藩とのまさに国境の上。

どちらからとなく歩いて橋の中央に立つ、逃避行に窶(やつ)れた棚橋三郎。父の敵を今こそ討ち、先祖にこの長年の思いを届けたい一心の広井磐之助、始めから結果は歴然としていた。

『父、土佐藩士広井大六の息子広井磐之助である。父の敵、棚橋三郎いざ尋常に勝負せよ!』言うが早いか父の形見、備前長船兼光の鞘をはらった。三郎もそれを受けて刀を抜くも、足が縺れて正眼に構えられない、一瞬日が陰った。その刹那(とき)磐之助の刀がまるでその橋に流れていた風を切るように前に出た。一呼吸止まると見せかけ横一文字に三郎の胴に入って一気に抜き通った。

棚橋三郎は一言も発せず、橋の中央に崩れ落ちた。周りで一部始終を身届けていた知人が三郎の絶命を確認した。ここに仇討ち禁止令が出ていた後に認められた、日本最後の仇討ちは終わったのである。

この仇討ちには、坂本龍馬の力添えと、土佐藩士広井磐之助の決意におされた幕臣、勝燐太郎(後の海舟)の計らいがあったことが記されている。そして磐之助の母がそのあとどのように身を処されたのかを、私は知らない。

(完)

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