2013年11月4日月曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・懐かしのエッセイ <標高 788 m >

【なじかは知らねど】

私が初めて単身赴任をしていた頃だったから、それは平成年の初夏のことだった。広島県、呉の駅近くにあるマンションの電話が鳴った。『先輩、お久しぶりです、お元気ですか』と明るい声が飛び込んできた。その声は、ご両親から『うちの一人息子を宜しく』と、ことある毎に頼まれていたT君からの電話だった。

『一人暮らしもようやく慣れたよ、けっこう楽しいものだよな』『先輩、また生まれるのですよ』『ほんとか?という事は、人目か?』『いいえ、人目です。えらい事ですわ』そう言って彼は電話口で笑った。

『一度お会いしたいですね、またあの時のようにやりましょうよ』『あの時って?』『ほら、いつぞやのクリスマス会で二人で歌ったあの歌。覚えておられますか?』『ああ、ローレライだったな』『うまくハモレて、上出来でしたね』。

彼は大学時代グリークラブに入っていた。その頃私は社会人になりたてで、時間があれば作詞をしたりしていた。どちらも音楽が好きだった。『近い内に呉の行きつけのA倶楽部で飲みながら歌おうよな』、と言って電話を切った。

私はその後、岡山、新居浜などに仕事場が変わって彼との約束を果たせないまま年月だけが過ぎた。平成15年の7月のある日、家内から電話が入った。それはT君が亡くなったという知らせであった。私は一瞬絶句し、頭の中が真っ白になった。たしか彼には赤子も含めて7人の子供がいたはずだ。それが一体どうしたというのだ。

聞くところによるとT君は仕事から帰ると、『今日は疲れたから少し早く休むよ』と奥さんに言って寝室に入ったらしい。そして朝、なかなか起きてこないので奥さんが見に行ったら・・・。

2年後私は長かった単身赴任生活から解放されて我が家に帰って来た。しばらくした頃、仲間の飲み会があった。私達のテーブルに若い女性の店員さんがやってきた。私はその顔と姿を見たとき、ふとその女性がT君のご長女ではないかと思った。仲間の一人が声を掛けてみた。奇遇であった。間違いなくその女性は彼の娘さんであった。彼女はお母さんを助けて家事を手伝いながらアルバイトをしていると言った。目も口もお父さんとそっくりだった。



お店を出る時、そっと彼女に尋ねてみた。『あなたローレライって歌、知ってる?』少し考えるような仕草をして彼女はこう言った。『はい、父がよく歌っていました』

『なぜ、あんな娘さんを残してお前は・・・』。独り言を言いながら、酔いにまかせて夜道を歩いた。たった一人で歌うローレライは、悲しくも寂しい歌であった。


           なじかは知らねど 心わびて

           昔の伝えは そぞろ身にしむ

           侘しく暮れゆく ラインの流れ
             

           入日に山々 あかく映ゆる

(庵主の日時計日記:わが心の友、Y・T君を偲んで)

2 件のコメント:

  1.  痛ましい話ですね。然し何か心にほのぼのとしたものが残るのは、後年出会った遺児が逞しくアルバイトをやって元気に生きて行っている事実ですね。友人としての庵主様が忘れずに遺児を見つけ出した温かい心にも感動いたしました。

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  2. 小川 洋帆 様

    こんばんは。彼はボクの後輩でもあり、信仰の友でもありました。酸素ボンベを引いて仕事にでかけていました。心臓が良くないといっておりました。でもがんばり屋で、仕事でも「社長表彰」を何度ももらったほどでした。子供さんが立派に生長されて、今ではお母さんをみんなで支えているとのことです。コメント有り難う御座いました。

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