2011年10月16日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・聖書に学ぶ <標高165m>



【クリスマスの意義(下)】

マタイによる福音書、第二章一節~



「星」はどういうところに出てくるのですか?夜であり、上にでてきますよね。暗闇の中にあっても上を仰ぐのです。そこには、あなたたちを導く「星」があります。その暗闇の中でも「星」を見つめなさい。天を仰ぐことが大切なのですよ。上にあるものを求めなさい。アンソロポスというギリシャ語は「上を見る者」即ち人間を意味しているのです。

絶望的な姿になっているかも知れません。でもそういった時にこそ天(神様)を仰いで生きるのです。

詩篇8章にはこのような言葉があります。

『主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き報復する敵を絶ち滅ぼされます。あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。

そのあなたが御心に留めてくださるとは人間はなにものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造りなお、栄光と威光を冠としていただかせ御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。』

このように、神様に顧みられているのが私達なのです。神様に僅かに劣る者として創られ、使命を与えられているのです。そして「天」は神の御手の業であります。上を向くことによって神の導きを得る事が出来るのです。

幼子イエスの元に旅してきた学者たちが「星」を見つめたのは、そういったことを意味していたのです。彼らは今までの生活に満足することは出来なかった。その真意を求めて遠くからやってきたのです。彼らの為していた「占い」は、聖書が禁じています。当時ペルシャやバビロンにはユダヤ人が移り住んでいました。だからそこに「占い」が根付いたのかも知れませんでした。

断片的な知識(占い)が大切なのではなく、聖書に聞くことが大切なのです。学者たちはベツレヘムに行きます。そこでは「星」が先だって進み、幼子のいる頭上で留まったのです。彼らはそのことを喜んで、私たちも神に導かれているのだと知ったのです。

マタイによる福音書は自分と同じユダヤ人に対して、イエスのことを知らしめるために彼が書いたのです。その2章で「占い」をする人が登場するのはおかしいではないかと、この福音書を読んだユダヤ人は不審に思いました。聖書が禁じている「占い」の事を書くことはあり得ない、資格のない占星術の学者が最初にイエスに出逢う事はあり得ないではないかと言ったのです。

マタイは人々の中で、差別をしてはいないのです。たとえその人が罪人であったとしてもイエスに祝福されると記したのです。そこにはマタイの気持ちが強く込められています。黄金、乳香、もつ薬をイエスに捧げる。それらは彼らの商売道具であったのです。そんな大切な物を捧げたということは、いったいどういうことなのでしょうか。

それは、「自分の生き方」を捧げたことなのです。『私はイエスに出逢えて、生き方が変わりました。今までは占星術に頼って生きてきましたが、これからはイエスに、神に頼って生きていきます』そう志が変わったのです。

これこそクリスマスの持つ意義なのであります。特に人生を旅する時、たとえ暗闇を歩いていても神様に導かれれば、必ず救われるのです。占星術の学者たちのみならず、私たちもそうなのです。十字架にかかられたイエス様を信じて生きましょうと、ここでマタイは語っているのです。

少し早いですがクリスマスの意義をしたためました。この項、大阪旭キリスト教会、岸本牧師のご指導を頂きました。感謝申し上げます。写真は「こころの灯火」。この灯を1分間、目を閉じてじっと瞼の裏に描いてください。心がすっと安らかに軽やかになりますよ。Jun



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