2012年2月1日水曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ ・言葉のアーカイブス <標高272m>

連載小説【あり地獄】5

会津若松の夜の町を宇野信二は歩いていく。どこに行くとも当てのない散策である。長い人生、今までたった一人で旅に出た事も数えるほどしかなかった。一人で見知らぬ夜の町を散策した経験もほとんど無いと言っていいくらいである。そこにはいつも仲間がいて、賑やかに楽しんでいたからである。

とある一軒の居酒屋の暖簾をくぐる。燻ったような狭い飲み屋である。今はどこでも良かったのだ。周りに人がいないのが嬉しかった。カウンターの向こうに老女が一人、古ぼけた小さなテレビを見ている。

宇野の入って来たのに気づいているのかどうかも定かではない。よく見えない感じの眼で、写りの悪いテレビに熱中している。『じゃましまっせ』とことさら大阪弁を使った。老婆はやっとテレビから目をはなして宇野を見た。『よくきらったなし、何にしゃすか?』と会津弁でぼそっと言った。宇野は何とも言えず心が落ち着く感じがした。

『熱燗もらおか』。暫くすると、二合徳利が運ばれてきた。つき出しはニシンの山椒漬であった。外はもう冷えてきている。酒が殊の外宇野の体に染みわったって行く。山椒とニシンが酒の精にまとわりついて傷心の旅を癒してくれる。『お客さんどこからきなすったね』『西からや』『そういやあ大阪弁じゃ、よくきらったなし』。

『わすの甥っ子が大阪におる、なぎゃあこつ会わん』老婆はさっきまで見ていたテレビのチャンネルを変えた。9時のニュースが始まった。そこにはなんと宇野信二その人の顔が映っている。それは市会議員が失踪した事件として取り上げられていた。その背後には有名私立中学校の不正入学が絡んでいるとのコメントが付いていた。

老婆は特に気にする風もなく、またチャンネルを切り替えた。『酒あっすか?』『もういい、お愛想して』『はいよ』宇野は二千円を支払って顔を隠すように居酒屋を出た。一刻も早くホテルに帰って、ニュースを見て明日からの行動を考えねば。はやる心を抑えながら足早に歩く。冷えた外気が、宇野の体から酒の温もりを剥ぎ取っていった。

周りを気遣うようにして部屋に滑り込む。鍵をかけ、何度も確認をした。テレビのスイッチを入れてニュースを探す。夜の10時までにはまだ少しの時間がある。その間にバスを使うべく、湯を張る準備をする。風呂に入って5分ほどした頃、電話のベルが鳴った。急いで部屋に戻った時、電話のベルは計ったように切れた。

ここに電話をしてくる人間はまずいないだろう。宇野が会津に来ている事さえ誰も知らない筈だ。ひょっとしてフロントから何かの連絡があって架けてきたのかも知れない。そう思ってフロントの番号をまわす。

さきほどカウンターにいた男性が出た。こちらからはなにも連絡していないとの事。さりげなく電話を切る。きっと間違い電話に違いない。よくある事だ。そう思ってバスに戻る。しばらくすると又電話が鳴っている。バスタオルを腰に巻いて部屋にもどる。それが間に合っても、宇野に電話をとる気持ちはない。なにが起こるかわからないからである。

電話の側まで行ったとき、彼の行動を見ているかのようにそれは切れた。いやな予感がした。彼はフロントの番号を回した。『急用が出来たので、明日早朝にチエックアウトしたい』『お客様、お時間は?』『朝の5時だ』『承知致しました、5時でございますね。カウンターのベルを押して下さい』『では宜しく頼みます』。

電話を置いて宇野は冷水を一気に飲み干した。今夜も眠れないだろう。しかし少しは眠っておかないと明日の運転に差し障りがある。そう思っていつも持参している睡眠薬を飲んだ。

夜の町にはまだ灯りが結構灯っている。道を隔てて正面のホテルの窓にもポツ、ポツとルームライトが消えずに残っていた。何気なく見ていた窓に、人間の影がひとつ揺れた。と同時にカーテンが急に引かれたのが目に映った。




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