2012年2月17日金曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ ・言葉のアーカイブス <標高289m>

連載小説 【あり地獄】12

目眩く陶酔から醒めた宇野信二の眼前に現れたのは、ダウンジャケットにジーンズといった出で立ちの女性であった。『大丈夫ですか?』と彼女は話しかけてきた。深い草の中に倒れ、手にゴルフクラブを握った宇野を見て奇異に感じた、と言うより、誰もいない『迷ヶ平』で人間に出会った事からくる安堵感から声をかけたと言うのが正解だった。

『ああ、大丈夫です。すみません』と宇野は女性を見上げて答えた。『貴女こそどうしてこんな所へ?』と立ち上がりながら話しかけた。何も答えず佇む一人の女。霧の底から舞い上がってきた『カタカムナ』の妖精の様な気がした。

『私、宇野信二と言います。ある事情でこの高原に来てしまったのです』ちょっと笑いながら話した。女性が微笑むのが垣間見られた。そこには少し安心したような仕草が見て取れた。

『わたくし、芹沢 祇乃、せりざわ しの、と申します。私もここにどうしても来なければならない気持ち。そう何かの糸に引かれるようにして・・・』そう言った途端、彼女は顔を覆って嗚咽したのであった。宇野はどうして良いかわからなかった。女性に突然目の前で泣かれる事ほど、男として狼狽える事はない。

『いずれにしても、下へ降りませんか?霧に撒かれると大変だ』『はい、お願いします。ここに来る前、変な男達に出会いました』『それは黒ずくめの男たちではなかったですか?』『そう言えば黒いソフトのような帽子を・・・』。

『やっぱり、奴らだ。でもどうしてここが』宇野は再び追われる者の恐怖心から暗澹たる気持ちになったが、この不思議な女性と出会って、今までとは違った何ものかが、体内に漲ってくるのを感じていた。

それはあの『迷ヶ平高原』の広大な大地の中で、『精』を放った不思議な体験がそうさせているのだと思えて来るのでもあった。女性の前を歩きながら、まだ乾ききらない『夢精』の痕跡を見た時、赤面して顔が火照った。かれこれ一時間ほど歩いて、二人は元の鳥居をくぐった。

宇野の車から少し離れた所に、白いセダンが停車していた。急いで女性を促して車を発車させた。宇野は十和田から東北自動車道に入るつもりで車を走らせている。途中一台の青森県警のパトカーと擦れ違った。まさかこんな展開に成ろうとは誰が想像出来ただろう。横に座っている、芹沢 祇乃と言う名の女性の年齢は、三十代半ばであろうか。横顔のすがしいその美しさは、若くしてこの世を去った母の面影にどことなく似ていると思った。

はるか遠くに八甲田の山容が望めた。ただだまって二人はその山を眺めていた。

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