2012年2月21日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ ・言葉のアーカイブス <標高293m>

連載小説 【あり地獄】14


『良いお湯でしたね、落ち着きました?』『久しぶりの温泉でした、有り難うございました』『ところで祇乃さん。こう呼ばせてもらって良いのかな?』『はい』。風呂からあがって、暮れてしまった外の景色を眺めながら二人の間には、すでに互いの心に潤滑油が塗布されたように感じられた。

『もう帰る所がないとは、どうして?』『逃げて来たのです。怖かったんです』。宇野は思いも掛けない祇乃の言葉に、まるで自分の今までの心の軌跡を見るようだった。

『聞かせてもらって良いかな?』『はい、お恥ずかしいことですが・・・』。
そう言って祇乃は浴衣の上に羽織った着物の襟を整えた。かすかに石鹸の香りが宇野の鼻腔をくすぐった。宇野も彼女の顔をしっかりと見つめた。

彼女は四国松山の出身。高校卒業後、大阪にて就職。その後友人の誘いで神戸に移る。ある宝石商社の女子社員として勤務を始めた。経営者である若社長の秘書のような仕事をしていたらしい。その内に若社長とよんどころない仲になり同棲をするようになった。

いわゆる社長の女になってしまったという。その社長が仕事の上で地元の高利貸より多大な借金をした。それがこじれて、黒い世界から追われる日々。その内に彼女の周辺にも闇の手が迫って来ていた。何度と無く見知らぬ男の訪問、会社からの帰り道のストーカー、追尾。いつ拉致されるかも分からない日々が続いたという。彼女は会社を辞める決意を若社長に伝えた。なんとその時祇乃は社長からひどい暴力を受けた。このままでは殺されると思い、ある夜男がいないうちに、着の身着のままでマンションを飛び出たのであった。

ジーパンにアノラックはその時着て出たものであった。四国の実家には少しずつそれまでに所持品は送り続けていたと言う。そして彷徨うように『迷ヶ平』へ。まさに彼女も『カタカムナ』の大いなる力に吸い寄せられたのであった。

宇野はその話を聴きながら、自分の環境よりも数段厳しいのを感じていた。それだけに祇乃が一層不憫に思えてきた。この女性は自分が守ってやらねばならない運命だとその時心に思ったのである。

宇野信二も今までの経過を全て彼女に話した。彼女は時折目頭に指をあてながら真剣に聞いてくれた。祇乃もその話を聴きながら、自分のこれからの人生に宇野が必要であると確信していた。

同じような境遇の男女が、それも『カタカムナ』の見えない糸で今一つになろうとしていた。それは生まれる前からの不思議な企らい事であったのかも知れなかった。

部屋の中にはスチームが通されていた。ほのかに暖かい久しぶりの安らぎの時間が流れていた。その時、祇乃が宇野を見据えてこう言った。

『信二さん、貴方は特に悪いことはしていないと思うわ。そりゃお金をもらったのは軽率だったとは思いますが、不正入学に手を貸した訳でもないし』。宇野もそう言われてみれば、出るところへ出て説明すれば、時間はかかってもきっと分かってもらえる。このまま逃げ続ける必要はないのではと心が傾いてきたのであった。

『祇乃さん、有り難う。死なないで済みそうだよ』『私も貴方と出会って勇気がもらえたようです』。二人は傷ついた心を癒し合う『連帯感』で堅く結び合った。心の中では既に一つに契りあえた、薄幸の男女にとって本州最果ての秘められた夜であった。外には木枯らしが忍び寄っていた。

祇乃の一言で、宇野信二の気持ちに変化が生じた。北の大地に渡る事なく、この出会いは二人にとって新たな人生の旅立ちとなるのであろうか。

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