2012年2月19日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ ・言葉のアーカイブス <標高291m>



連載小説 【あり地獄】13

『ところで、祇乃さん。あの迷ヶ平へ行かれたのはどうして?』と思い切って問うてみた。『あのまま霧にまかれて死んでしまおうかと・・・』祇乃はか細く答えた。


彼女の人生に何があったと言うのだろう。それ以上は聞かないでおこうと口をつぐんだ。『カタカムナ』の存在を知ってから、宇野の意識の中には不思議な現象が何度となく起こった。例えば『甲山』の山肌に『カタカムナ文字』が浮かび上がって、その形が何かを暗示していた事もあった。

それとなく祇乃に話してみた。彼女の意識の中にも同じような現象が起こっていたようだ。遠くから見る山肌に樹木が作り上げる不思議な紋章。そのいくつかを組み合わせて将来発生する現象が朧げながら予見出来たらしい。

車は南津軽郡大鰐弘前ICを出た。今日は、大鰐温泉で心の整理と、そして、芹沢祇乃との不思議な出会いについても二人で話さねばならないと宇野は考えていた。

『祇乃さん、これからどうされますか』それとなく聞いてみた。『私にはもう帰る場所はありません』と祇乃はハッキリと答えた。『今日の泊まりは大鰐温泉にしたいのですが』『宜しくお願いします。お邪魔でなかったらご一緒させて下さいませんか』。そう言って祇乃は頭をたれた。長い髪が落ちかかった。

宇野信二には観光という意識は全くなかった。これからの毎日をどう生きるのかを考える事で精一杯であった。大鰐町大鰐字湯の川原、茶臼山公園が近くの『大鰐温泉』。その中に一軒の旅館がある。大正ロマンあふれる湯の宿である。宇野は車を止めて、祇乃を見た。少し疲れているようだが、大丈夫と言ってかすかに笑った。

その時、宇野は車の底になにか見慣れない小さな機械が取り付けられているのを発見した。今までこんな物は無かった。取り外してよく見ると何かの受信装置のようなものであった。
宇野は白いセダンが、『迷ヶ平』に停車していたのが何故か分からなかったがこれで疑問は解けた。どうやらあの盛岡の夜のうちに、追跡する為に取り付けられたものらしかった。これで今すぐの危機は回避出来たと思った。祇乃には何も話さなかった。

平日の事とて、旅館の客はほとんど見えなかった。女将に引率されて今夜の部屋に案内された。芹沢祇乃は宇野から離れるのを拒んだ。何かに怯えているようだった。宇野もあえて断ることもしなかった。ともに脛にキズ持つ者同士の労りあいか、はたまた人の温かさへの渇望か、通された静かな部屋に取りあえずの旅装を解いたのであった。

山が迫っている。昨日今日の冷え込みで見事なまでの紅葉が見て取れる。窓際の二つの椅子に、先ほど会ったばかりの見知らぬ男女が座っている。まず考えられない光景である。それほど二人の置かれた立ち場は縺れて絡まった人生のモザイクそのものであった。

『祇乃さん』と宇野は彼女の目を見て云った。祇乃もその目を受け止めて『はい』とだけ答えた。『帰らなくて良いのですか?』『はい、私にはもう・・・・・』『失礼ですが、ご結婚は?』『一人です』。とぎれとぎれの会話ではあるが、それだけでなんとかお互いの心は通じあった。

『じゃ、僕一風呂浴びてきます』『私も』。そう言って二人は、階段を降りて静かな温泉に足を運んだ。『じゃあ』と言って宇野は殿方と書かれた暖簾をくぐった。湯につかりながら、目を閉じて、これから先どうしたらいいのか思いあぐねていた。

芹沢祇乃も、透き通るような肢体を白濁の湯に沈めてこれからの自分に起こってくるであろう初体験の日々に戸惑いを覚えていた。昨日までの『あり地獄』のような生活から、こうして解放された安堵感からか、知らず知らずのうちに泣けてくる女の性(さが)を、この湯に流してしまおうと心に決めていたのである。

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