2013年4月14日日曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・ジャズパブ維摩 36 <標高591m>



気仙沼の第一夜を庵主様とあきちゃんとが同じ部屋で過ごす事になった。今から30年前の思い出が脳裏をかすめて通り過ぎる庵主様であった。その時暁子が話しかけてきた。

『庵主様、以前この気仙沼にお住まいだったとかお聞きしましたが』『ああ、もう30年も昔の事だ』『詳しくお聞きしたいわ、その頃のお話し。私が生まれてまだ間もない頃の気仙沼での事』『もう遠い昔の事、とっくに忘れたよ』。

『ねえ、2年間この町のどこにいらしたのですか?』『宝鏡寺の近くだった』『へえ〜、あそこなら子供の頃よく遊びに行きました』『静かな竹藪がいっぱいあったな』『そう竹の子掘りに父によく連れて行ってもらったわ』『お寺の近くに小さな一軒家があった。そこに2年間住んでおった』。

そう話した時、庵主様は遠くを見つめる様に霙の降る窓の外に目をやった。そうしてフ〜とため息を一つついた。

『その時お一人じゃなかったのでしょう?』と暁子が問うた。暫くなにも答えない庵主様を見た時、その目頭に涙が溜まっているのに暁子は驚いた。彼女はそっと庵主様の目にハンカチを当てた。

『さっき眠っていただろう。あの時ある女の夢を見ていた』『こわい顔をしていらしたわ』『ワシが40歳の時じゃった。観音寺の境内で、ある女と出会ったのじゃ。11月初めの寒い夕方の事じゃったよ』。

庵主様は、ポツリポツリと記憶の糸を手繰るかのように話し出す。それは今まで誰にも話したことのない彼の傷心の過去でもあった。

『その女が無性に不憫に思えてな、一緒に山を下りて町に出たのじゃ。今夜のような冷え込む夜じゃった。今はもう無いが、その頃港町にあった一膳飯屋に入った。体が冷え込んでおってな、酒で温めたのじゃ。その女も少しは飲んだようじゃったな』。

『どこの方?』『確か秋田に住んでいたと聞いた』『なにか小説のお話みたい』『男と女、自然の成り行きで・・・、近くの旅籠に入ったのはもう11時を過ぎていた。ちらちら雪が舞い出したそれは寒い夜じゃった』『身よりの無いひと?』と、暁子が身を乗り出すようにして問いかける。

『天涯孤独じゃと言っていた。そのままワシ達はこの町で二人で暮らすようになってしまった』『関西へは帰らなくって?』『ああ、この女をおいては帰れなかったのじゃ。今から考えるとワシも大胆な事をしでかしたものじゃよ』。

そう言って庵主様は冷蔵庫から、酒を取りだして湯飲みに注いだ。暁子にもそれをすすめる。一気に飲み干して、丹前の襟を合わせて座り直した。暁子もお酒を含んで少しだけ飲んだ。

『もう遅いぞ、やすんだらどうだ?』『いいの、庵主様のお話聞かせて』。と暁子は膝をすすめる。丹前の胸元から幽かに石鹸の匂いがした。

『ワシはその宝鏡寺の傍のしもた家で、原稿を書いては大阪に送りつけた。それでも充分仕事になった良い時代じゃった』『気仙沼が仕事場に・・・!』『そうじゃ、あの頃の本(作品)で気仙沼の漁師一代記が大阪の芝居で当たってな。今でも地方の芝居小屋で架かることがある』。そう言って庵主様は二杯目の酒を口に運んだ。

『ワシら二人は、この漁師町で隠れるようにして生活をした。じゃがこの2年間はそれはそれで、心安らかな、人間らしい生活じゃった。女もただ黙ってワシの後に付いてきてくれた』『子供は出来なかったの?』。何気ない暁子の問いかけに、庵主様の顔には心の動揺を押さえきれない様子がありありと見えたのであった。

初めて庵主様の隠された一面を暁子は見てしまった。まるで30年前、庵主様と薄倖の女が枕を交わしたような夜が今、深々と更けて行く。外では木枯らしが忍び泣くように吹いていた。暁子は手を伸ばして炬燵の布団をそっと整えた。

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