2013年4月18日木曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・ジャズパブ維摩 37 <標高595m>



夜の底が白くなった。港に続く道は霙が積もってそれが夜の冷え込みで凍り付いたようだ。暁子は厚手のカーテンを引いて、外気の冷たさを遮断した。座敷炬燵に二人が向き合って酒を呑みながら妙な時間が過ぎていく。

『実は二人の間に子供が出来たのじゃよ』そう言って庵主様は何かを思い出すかのように、合掌をして目を閉じた。『子供さんは、生まれなかったのですか?』と暁子が聞いた。

『そうじゃ、その子は死産じゃった。男の子だったらしい・・・』庵主様はじっと頭をたれたまま目を閉じておられる。しばらくして暁子が言った。『お酒温めましょうか?』『そうしてくれるか』。暁子は酒の瓶を持って部屋を出て行った。しばらくして燗をつけた酒を持って戻ってきた。手には気仙沼名物の『あざら』を下げている。やはり地元の人間だ。どこからか手に入れてきたのだろう。

 二人は炬燵を挟んで、熱燗を呑んだ。この暁子も実は薄倖の女性であった。『いっしゅはん』から以前聞いたことがある。結婚した相手がやくざな男で、その借金に耐えかねて逃げるようにして別れたらしい。そして兄を頼って神戸に出てきたとの話であった。それが昨年のクリスマスイブ、『ジャズパブ維摩』に大雪の降った夜、倒れ込むようにして入って来た『お雪さん』そのひとであった。

『ワシはその子の生まれてくるのをどんなに楽しみにしておったか』。そう言った時、庵主様は握りしめた拳を振るわせた。

『なぜ死産だったのかは判らん。その子がワシらを親として選ばんかったのだろう』『そんな・・・』と暁子は言葉を飲み込んだ。『いや、ワシたち二人は所詮一緒になる事は出来なかった』。そこには言いしれない余程の事情があったのだろう。男と女の行きずりの、愛の冬花火であったのかも知れなかった。

『その方はその後どうなさったの?』『ワシにどうしても関西に帰らなくてはならない問題が起こってきた。だが女にはそれが出来なかったのじゃ』『で別れてしまったというの?』。暁子は庵主様を咎めるように言った。

『ああ、必ず気仙沼に帰って来ると約束してワシは一端この地を去った』『それで約束は守ったの?』『・・・・』庵主様は何も言わずただコップ酒をあおった。

 『女の名は、神林しず、というた。その女から一度電話があった。代わりの者が用件を受けたのだ。その時ワシは取材のため大阪を離れていた』『どんな電話?』『体を悪くして入院しているとの事だった』『それで、すぐに行ってあげたの?』『ああ・・・』。

『数日後病院を訪ねた時、容態はすでに危篤状態だった。電話も病院の看護婦が架けてきたとのことじゃった』。そこまで話すと、庵主様はもう言葉にならない。

 二晩「しず」の横に付き添った。夜も寝ないでまんじりともしなかったと言う。『あれは「しず」が息を引き取る少し前の事だった。微かに意識が戻ってな、医師と看護婦が急ぎ回診してきた。その時「しず」の目があいて、ワシをみとめたのよ』。

『なにか言おうとしている。顔を唇の傍まで近づけてみた。その時「しず」は、言葉を選ぶようにこう言ったよ、消え入るような声じゃった』『あ り が と う。・・・あなたに あ え て よ か っ た』。『細くあいた目から涙が流れ落ちた。ワシはその涙を唇で受けた。そして「しず」の顔を、この手で挟んで泣きじゃくった』。

『その日の深夜、「しず」はこの腕の中で静かに息を引き取った。頬にうっすらと微笑みを浮かべていたよ。ワシは形ばかりの「しず」の葬儀を済ませ、気仙沼港が見下ろせる高台の墓地に死産した息子の”しるし”と一緒に埋葬したのじゃ』。

『ちょうど春霞がたなびき朧(おぼろ)の月が山の端に昇りだしていた。北へ帰っていく白鳥が二羽、月を指して飛び去って行った。それはまるで二人の魂があの世とやらへ飛んで行くようじゃった。ワシは傷む心を引きずりながら、山を下りて大阪へ帰る夜汽車に乗った』。そう言った時、炬燵の上に庵主様の涙がこぼれ落ちた。

話を終えた時、『明日一緒に、しずの墓に参ってくれようか?』と暁子に問うた。何も言わずただ頷いた暁子であった。

 庵主様の肩を落とした脊中に、暁子はそっと手を添えた。庵主様の冷たい手が暁子のそれに重ねられた。哀しい過去を全て語り尽くした庵主様。暁子は明日、その「しず」さんとやらのお墓に詣でる。気仙沼の第一夜は、遠い昔にこの地で果てた、薄倖の母と子、そして年老いた庵主様の悲しい過去と共に、暗い闇の中にとけ込んで行ったのである。



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