2011年9月27日火曜日

酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・言葉のアーカイブス <標高145m>

【吉田絃二郎と歩く四国新居浜の旅】


絃二郎は「一宮神社」を出て浜に向かっている。『入江には潮が満ちて来た。提燈を点しつらねた船が川上から島の方へ漕ぎつれてゆく。三味線を弾き、鼓を打つ妓たちが、客と共に唄ふ。最初はかなり騒々しくもあり、不愉快である。しかし夜が更け、星が輝き、波の音までも静まるころ、水を隔てて遠い舷の歌を聴くのは何となく水郷の秋の夜の哀愁をそそられる』と、その夜の光景を残している。

彼は今日の地番では大江の浜か、雑魚場辺りの宿(現住友化学周辺)に逗留したようである。ただここにある「島」がどこを指すのか。かすかに見える「大島」の事だろうか?よく分からない。

今ではこの様な悠長な逗留はちょっと考えられない。まして提燈を点しつらねた船が川上から・・・と言った光景は見られない。現在町の真ん中に「昭和通り」がある。商店街である。昭和6年に完成したから「昭和通り」と名付けられたが、絃二郎が訪ねた頃はさぞ賑やかなことだったろう。

どうやらこの辺りの文章を読むと、彼は男の快楽の為に金で買われる妓らの哀れを綴っている。ちなみに絃二郎はクリスチャンであった。さすればこの辺りは当時、花街・色町だったのだろうか。彼は続けてこう書いている。



『夜が明け切れぬうちに男たちは窓の直ぐ下にもやはれた小舟から沖の方へ帰ってゆく。男たちはたいてい内海通ひの汽船の船乗りである。・・・浜に立って客を送る女の姿も見られぬ。』男と女の金銭だけの繋がりの哀れさを思はせる。

彼はその朝、黒い檻に取りかこまれた屠牛場へ曳かれて行く牛に出会っている。そして彼の人生観のような記述がある。『殺されにゆく牛を見るのはほんとうに不愉快である。トルストイでなくとも屠牛場に曳かれてゆく牛を見ると耐られない気持ちになる。』

そしてこう続けて言ふ。『しかし魚が魚を食ひ獣が獣を食ひ合っている自然を見ると、互いに殺し合ふことが生けるものの悲しい宿命であるやうに思はれる。殺すものも、殺されるものも共に悲しい宿命である。一人の人間が生きてゆくために幾人かの人間が殺されつつある。不知不識(しらずしらず)の間に私たちは隣人を殺しつつある。世に一人の義人あるなし。それが人間の宿命ではないか。』

その朝、絃二郎は浜に出ている。そしてこう記している。『浜には石風呂というのがある。アーチ型に石を畳み上げて、柴を焚いた上に、水に濡らした筵(むしろ)を展べて、襤褸(ぼろ)のどてらを着て人々は転がっている。焦熱地獄である。風呂を出て冷たい水を浴びた後の心持ちは何とも言えぬさうである。白い砂浜を絶えず村の人たちは石風呂の方へ歩いてゆく。』

この描写を読んで思い出した事がある、私が勤務していた「新居浜工場」から歩いて300メートルほど海の方に行った所に小さな川に架かった橋があった。そこらは沢津町松の木といった。その橋の名前が「石風呂橋」であった。今から75年ほど昔、確かにその辺りに吉田絃二郎が見た「石風呂」があったのだろう。そこは現在、「沢津漁港」になっている。毎朝、魚屋や寿司屋の男達が新鮮な魚を買いに朝早くから訪れる。おしろいの匂う、妓の姿は見えよう筈もない。

その日彼は新居浜を出て、香川の金比羅宮に詣でている。讃岐富士の優雅な姿に感動し、四国の旅の疲れを癒すため、帰途京都に降り立ちている。

そして『京都では アカシヤの木も 秋の風』の俳句を残している。

吉田絃二郎と歩く四国新居浜の旅はこれにておしまい。次回は流一平さんと京都の老舗を訪ねる旅です。どうぞお立ち寄り下さい)

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